キリスト教の理想と森田療法の「あるがまま」

森田療法の森田正馬は、どちらかと言うと、キリスト教に批判的だった。それはもしかすると、キリスト教の求めてくる「理想」が高すぎて、人間を苦しめると思ったのかもしれない。

でも私は、人間を苦しめるのは「理想」ではないと思うようになった。絶対に届かないからこそ、「理想」だからだ。

それは、「努力すればなんとか到達できる」ということではなく、いくら探しても、自分の中に「理想のカケラもない」ということだ。だからこそ私は、弱さを繕うことをやめた。弱いままで神の前に座る。それが私の「あるがまま」だ。

★追記★

森田療法の専門家の方に読んでいただき、「森田先生は、そこまでキリスト教に批判的ではなかったと思う」という指摘をいただきました。確かにそのように思える文章がいくつかあったことを思い出しました。

対人恐怖でクリスチャンだった学生の患者を治療した時のやりとりが残っています。その中で、印象に残った言葉を一つ抜粋します。

(この患者は、進路のことで父親と対立していた。父親に感謝する心と反発する心の葛藤、対立していながら父親に養ってもらっていることの罪悪感などを抱え、「私は、物質では貧民でもよいが、頭では富豪になりたい」と書いたことへのコメントとして)

「頭の…心の貧しきものは幸いなり」

これは有名なキリストの言葉です。前に読んだ説教によると、心の貧しいもの=心の乞食というようなニュアンスだそうです。自分の心の貧しさを認めて、乞食のように神の前に座る者は、神と共にいることになるので幸いだということです。

森田先生がこの聖句をどのように解釈してこの患者に応答したのかは断定できませんが、もしかすると、自分の心の貧しさを認めることが「あるがまま」なんだと伝えたかったのかもしれません。

参考文献:「対人恐怖の治し方」森田正馬 白揚社

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会いたい

「キリストに出会う」って言うけど、私はまだ出会ってないんではなかろうか…

一時的にハイになることはあったけど…

会いたいなあ…

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川辺にいます

川辺っていいよね…

水が好きなんだと思う…

ツクツクホーシの声が弱くなって、スズムシ系の虫の声がよく聞こえるようになってきた。

(更新しないと、追加や編集ができなくなるというメールが来たのでとりあえず書いてみました)

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祈るのが怖かった話

中2の時から自意識過剰に悩まされてきたけど、今思えば、「真剣に癒しを祈らなかった」。

それには理由があって、自分で自分の悩みを「変な悩みだ」「こんなことで悩むのはおかしい」と思っていたから。そして「自分がおかしいのだから、考え方を変えるとかして、自分で何とかしよう」と思っていた。

全く祈らなかったわけではない。でも「本気で」祈るのは怖かった。だって「自分がおかしい」のだから、神様は聞いてくれないかもしれない。それに真剣に祈って聞いてもらえなかったら辛すぎる。

「御心のままになりますように」とは祈っていたけれど、今思えば、あれは「逃げ」だったなあ…でもあの時はあの時で、どうしようもなかった…

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私たちの負い目を赦してください

主の祈りの「私たちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイ6:12)」

が、実はずっとしっくりこなかった。

なぜかというと、私が神様に負い目を負っているとは実感できなかったから。

今思えば、「なんで長年苦しんだ上に負い目を負わなくちゃいけないの?」「神様こそ、私に負い目があるんじゃないの?私は長い間、人には理解されない変な理由で一人で苦しまなきゃいけなかった…」と口にはしないけど心の底で恨んでいたのかもしれない。

一人相撲の自分勝手な恨みだったけど、ついに神様にブチ切れて、「答」をいただいた。「あ〜長かった…何度もガッカリさせられてきた…」と考えていた時に、突然、「私こそ神様を数えきれないほどガッカリさせて、裏切ってきた」と気がついた。

「負い目」の意味がわかった。

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森田療法とキリスト教(創世記のエピソードから)

悩めるクリスチャン向け|中野奈花|note

↑noteに書いた記事です。「内省的」で自分の感情についてついつい考え込んでしまうクリスチャンに向けて書きました。

 

 

 

 

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肉なる者(説教メモ)

★聖書箇所★

[詩篇 65:1,2,3,4]


 神よ 御前には静けさがあり

 シオンには賛美があります。

 あなたに誓いが果たされますように。

 祈りを聞かれる方よ

 みもとにすべての肉なる者が参ります。

 数々の咎が私を圧倒しています。

 しかし 私たちの背きを

 あなたは赦してくださいます。

 幸いなことよ

 あなたが選び 近寄せられた人

 あなたの大庭に住む人は。

 私たちは あなたの家の良いもの

 あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号


★説教メモ★

これはダビデの詩と言われています。ダビデは主から認められ、「神と心が一つ」とまで言われていました。

しかしダビデは、自分では神の前に立ちうる人間とは思っていませんでした。数々の罪に圧倒され、自分が弱く愚かで惨めな存在(肉なる者)であることに葛藤する普通の人間でした。

それでも神の前に進み出るのは、神がそんな自分を赦してくださると信じていたからでした。

神は完全に清く、罪を憎むお方なので、ためらってもおかしくはありません。

それでも、「みもとにすべての肉なる者が参ります」と神の前に進み出ます。

「自分は神と心が一つだから」ではなく、神が選んでくださったから、神が近寄らせてくださったから…

主の御前には、赦しと解放があります。それだけではなく、尽きることない恵みを与えてくださいます。

罪の現実を見る時に、「こんなはずではなかった」と思い、礼拝から遠ざかってしまうこともあります。

しかし、私たちが主の御前に進み出るのにふさわしい瞬間は一度もありません。

招かれざるものが招かれ、赦されざるものが主の十字架によって赦されました。

救われてもなお弱さがありますが、そこに主の血潮が注がれて赦され、御前に進み出ることができます。

招かれざる者が招かれた恵みを知る時、私たちの生活のすべてが礼拝へと向かいます。

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骨折でウツが楽になった話

神経症(不安障害)の治療法に森田療法というのがある。前にカウンセリングを受けていた時、カウンセラーから何度も何度も「感情をいじくりまわさないように」とアドバイスされていた。

例えば、落ち込んでいる時に「気分を上げよう」と努力すると、注意がどんどん嫌な気分に集中し、ますます酷くなるので、「そのまま」にしておきなさいと…

理屈ではわかっていたのだけど、先週転んで利き腕を骨折し、シーネと包帯でぐるぐる巻いて固定された腕を見ているうちに、それがどういうことなのか体感できた気がした。

折れて腫れている腕をいじくりまわしたら悪化するに決まっている。だから極力、動かさないようにして回復を待つ。そして、残った腕でやれることをする…面倒でも、効率が悪くても、そうするしかない。だって折れているんだから。

目に見えるか見えないかの違いで、「感情」も「折れた腕」と同じなのだ。ウツの時は頭の回転が悪くなるので効率が落ちるし、全てが億劫になってしまう。しかし自分を奮い立たせようと感情をいじくりまわしてはいけない。そのまま放置しておき、頭が回らないなりに、できることをするしかない。だってウツなのだから。

この次またウツの波が来たら、この感覚を思い出したい。

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森田療法とキリスト教(イモーションズ・アノニマスの12ステップ)

森田療法は、森田正馬によって創始された神経症(→最近では不安障害とも呼ばれている)に対する治療法です。東洋的な世界観が背景にあります。

EA(イモーションズ・アノニマス)はアメリカ生まれで、感情・情緒に問題を抱える人々の集まりで、12ステップというプログラムを用いています。この12ステップは有名なAA(アルコホーリクス・アノニマス)の12ステップにならっていて、キリスト教の影響を大きく受けています。

森田自身は自分の治療法を「自然療法」と呼んでいました。そして患者が「自然に服従」することを会得することを説きました。この「自然に服従すること」が、有名な「あるがまま」です。
森田は、感情を「内なる自然」と考えていました。感情を理性で無理にコントロールしようとして弄り回した結果が、神経症だと考えていました。人間自身も自然の一部で、人間の中にも「内なる自然」があり、私たちは、自然に服従して生きるしかなく、「内なる自然」をあるがままに受け取りつつ、「内なる自然」を信頼して委ねなければならないということを説きました。

私は自分の気質には森田療法が一番合いそうだと長年思っていましたが、この「仏教的」な部分にはどうしてもクリスチャンとして抵抗がありました。ところが、違う世界観のはずなのに、結論として「委ねる」ことが求められることは一致していました。教会でも耳にタコができるくらい「委ねましょう」「手放しましょう」と言われます。そこが不思議でした。

先日、前から気になっていたEAのテキストを取り寄せてみて、3ステップまでではありますが、何回も読んでみました。

1.私たちは、感情・情緒に対して無力であり、思い通りに生きていけなくなったことを認めた。

2.自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。

3.私たちの意思と生き方を、「自分なりに理解した」神の配慮に委ねる決心をした。

EAでは、「神」に抵抗がある人は「概念」でも「仲間」でも、とにかく自分より大きな何かを自分なりの「神」とすればいいとしています。
そこで、森田療法を12ステップの文脈で表現してみると…
人間の中の「内なる自然」を「自分より大きな力」=「神」と考えているということになります。

私はクリスチャンなので、自分の中の「内なる自然」を「神」と考えて委ねることはできません。けれども、私の感情は完全に神の手の中にあることを信じています。ですから、私は「神ご自身」を信頼すればいいのだと思いました。

私は森田療法の「自然に服従する」は、キリスト教の「悔い改め」に似ているのではないかと思っています。

キリスト教の「罪」の定義は(教派によって違ってくるのかもしれませんが)、神を神として認めないこと、自分が神になってしまい、全てをコントロールしたいと思うこと、神に委ねることを拒絶することだからです。

★参考文献★

「流れと動きの森田療法」岩田真理

How It Works  EAの12ステップ


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鬱のやりすごし方8

ウツ期は、どうしても、自分の気分に注意が向いてしまうので、それから逃れたくて、色々やるけど辛い。

自分を見つめないようにしようと思えば思うほど見つめてしまって辛くなる…これは、「◯◯をしないようにしようと努力すればするほど◯◯にとらわれる」神経症的な問題だ。

今回は、「そしたらもう、好きなだけ自分を見つめる!それでどれだけ辛くなるか見てる!」と思うことにした。結果、急に「辛さ」が萎むという体験をした。

森田療法の専門家にメールで報告したら、「それが『あるがまま』の体験だと思いますよ」と返信が返ってきた。

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